またちょっと熱上がるかもしれんから短くメモ程度だけど

やっぱり思いついた時に書いておく 時間に対する感覚の話
時間に対する感覚じゃないかな 今っていうことについてか
人によって自分のことが語られるっていうのは面白いね


自分にとっては確かに大事なのは、現在、今、ここ、だとおもう
バックボーンや経緯を考えることもあるけれど、それは、なんというか
今、ここで表象として現れているその人を形作るからであって
過去や歴史や経緯をひっくるめてそこに居る人が撮りたいのだと思う


それはきっと自分が、移り変わりの激しい、「撮れるうちに撮る」的な
そういうアイドルを撮るところからカメラを始めた、ということとか
あと、プロレスを撮る、とかそういうところとも繋がっているのだろうケド
それは自分の持っているものの発露として、なのかもしれない、とも思う


もうこれはきっと自分の本質的なところと抜き差しならない関係があるのだ
何度も何度も、「二度も同じ時間はない」に反応してしまうのは、そこなんだろう
ともかく、二度とない現在という時間を拾い集めようとしている
もしもそれが、単純に言えば、全てデータが吹っ飛んだとしても、だ
もうはっきり言えばそんなん関係ねえである
だって、その場に自分が居たこと、楽しかったこと、写真を撮ったこと、全ては
もう歴然として「あった」 その証がなくなっても、あるに越したことはないけど
でも、なくなっても構わない ていうか、なくなってなんかいない
一番の証は、この自分なんである そして、その中にある、思いなのです


そういうところで、自分は「思い出」という言葉を多用してるんだろう無意識だけど


こんなことはどうなるかわかったもんじゃないのだけど
本当に来年度から、週末すらあまりカメラをもてなくなる可能性もなくはなくて
最近は本当に焦っている 特に周囲の人が次から次に入院だなんだとぶっ倒れるし
いつ自分が、キラキラした今を感じられなくなるか、思いに刻めなくなるか
焦っても仕方がないことだ、とは思いながらも、焦っている
なので多少無理をして、少し体調を崩したりする 休みはちゃんと入れているけど


自分にとっては、写真は、刹那の現在を祝福するためのものなのかもしれない
どこのヴィジュバン?って感じのフレーズですけど、でも、それはあるのだ
その祝福の仕方が、拡大解釈して、誇張して、思いに刻まれた形に近くする、と
だからキャラクター化がなされ、見たままを表現するためにシャッタースピードは遅くなる
まあ暗いレンズ使ってるからなんですけど


自分の話ばかりしてしまったので、校長の写真について、少しだけ
校長のB写真、なんか、Bよりも、後ろの木が主人公になってる気もしてきて
なんでだろ?と思ったんだけど
人間にとっては過去と現在を同時に生きるような木というもんは
校長にとっては面白いというかやすらぐというか、ええもんなんじゃろな
と、思った次第
蟻の時間がきっと人間とは違うように


いいかげんねる 亀戸!

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